浄土宗、法然上人が比叡山を降りて初めて草庵を開いた場所に建つ「金戒光明寺」。
幕末ファンにはおなじみ、京都守護職についた会津藩主・松平容保の本陣となった場所。
それにしても、なんでまたお寺が本陣に?と思ってしまうが、
実は、ここ、徳川家康が有事の際には本陣にしようとしていた場所。
知恩院と金戒光明寺はちょっと小高い場所にあり、城構えにぴったりなんですね。
さらに、宿坊もあったりで、1000人ぐらいは収容できる。
260年後の未来を見据えてた徳川家康、恐るべし。
と言うわけで、法然上人的な見どころもたくさんあれば、
幕末の会津藩、さらに言うと、「新撰組」的資料もたくさんで見どころがとにかく多い。
さらに!!
インスタ映え確実の「アフロ仏像」もあったりで、知名度低いわりに行ってみて損のないお寺なのだ。
門にも早速「京都守護職本陣」の文字が。
京都守護代が徳川幕府からの京都のお目付役としてずっと機能していたが、
幕末になると、暗殺や辻斬りなど、京都の治安がめっちゃ悪くなる。
そこで、新設したのが京都守護代。
まー警察ではとても抑えきれないから、軍隊を投入、って感じです。
京都守護代として「鳥羽・伏見の戦い」で亡くなられた会津藩士たちのお墓があります。
それにしても、会津藩士って白虎隊など、どうしても悲運なイメージあるなー。
もともと、京都守護代も莫大な戦費がかかるし、本当はやりたくなかったみたい。
でも、会津藩の初代が二代将軍の徳川秀忠の子(正室どころか側室との間でもない)で、
その存在に気づいた三代将軍、徳川家光に見出されて会津藩主にしてもらった。
それに恩義を感じ、会津藩主は代々の家訓として「会津藩は将軍の守護たる存在となるべし」ってのがあった。
そこを、井伊直弼に突かれてやることに。
やるとなったら、そこは実直な会津藩、死を覚悟してやるんだよなー。
恐れ入ります。
堂々たる山門。立派です。
さすが城郭として考えられたお寺。広いです。
御影堂。法然上人75歳の時の坐像が安置されている。
うーんこれは確かに1000人収容しそう。
二代将軍秀忠の正室、江の供養塔。浅井三姉妹の三女ですね。
会津藩初代藩主は保科正之。徳川家忠が静に産ませた四男。
正室の江は大河ドラマなんかでは、たびたび嫉妬深いキャラとして登場するのだが。。
で、江の供養塔の近くを歩いていると、
ん?? なんだあれは??
おいおい、何をすまし顔で風景に溶け込もうとしてるのよ。
明らかにキャラ濃いから。
ばいーーん!! 見た目のインパクト凄すぎます。
が、別に製作者が冗談半分で彫ったわけではもちろんなく、「五却思惟阿弥陀仏」というありがたいお地蔵さん。
「寿限無寿限無」の落語でも出てくるとにかく長い時間を表す「五却」。
「一却」という単位は、厚さ160kmの大岩に、数年に一度天女が降りてきて、衣で撫で、
少しずつ岩が削れていき、岩がなくなるぐらいの時間を言う笑。
と、とんでもない時間の単位です。。それが5回分。途方もない笑。
つまり「そのぐらい長い時間、思惟してたら、髪ものびるよー」という表現。
それにしてはむしろ短いような。。
これ作ってる時、彫りながら絶対笑ってたよなー。
竹内栖鳳の墓も。近代日本画の第一人者で文化勲章の第一回受賞者。
京都の寺社仏閣でもあちこちでその作品を見ることができます。
円光大師御影堂。円光大師とは法然のことです。
まるい暮石がちょっとおもしろい。
広大なお墓エリア。このエリアの手前には池があり、あたかも三途の川を渡った先の極楽浄土みたい。
三重塔まで登るとけっこう頑張った感じします。
三重塔から京都の町を臨む。
ちなみにすべてのお墓は西向き。西に沈む夕日を拝めるようにしてるそうです。
なるほどねー。
さて、幕末ファンはマストゴーの「会津墓地」へ向かいます。
ちょっと墓地群から隔離されたところにひっそりとあります。
日曜の朝から、近所の人たちがお掃除しておりました。
悲運のイメージが強い会津藩士たち。今でもこうやって大切にケアされているのをみてホッとした。
よかったよかった。安らかに眠ってください。
所変わって大方丈。ここも見るとこ多し。
法然さんの人となりがわかる展示品や、近藤勇も来たという松平容保の謁見の間。
新撰組関連の書物などなど。
そのほか、虎のトリックアート(2匹が見方よって3匹になったり)なども。
奥には有名庭師が作ったお庭も。意外に見どころ多くて困ってしまいます。
植彌加藤造園株式会社は京都の現代庭師の中でもかなりいい仕事してます。
と、見どころ多い金戒光明寺の行き方は、
京都駅からはバスでJR京都駅から
市バス5番……東天王町下車 徒歩15分
市バス100番…岡崎道下車 徒歩10分
が一番近い。
浄土宗大本山 くろ谷 金戒光明寺
〒606-8331 京都市左京区黒谷町121 TEL:075-771-2204